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ジョンファン

安貞桓のロングインタビューがアップされていました。
F・マリノスでも活躍してくれた選手ですが、個人的にはその頃マリノスの試合を見ていなかったので、ワールドカップの方の印象が強かったりします。今でもジョンファン好きな方がいるかもしれないので、これはクリップしてみました。かなり長いです(笑)

あのアン・ジョンファンは今… 前編(KFA)

ワールドカップ特集の “人” リレーインタビュー。今回は、“永遠の韓国サッカーのファンタジスタ”アン・ジョンファン選手です。

アン・ジョンファン選手は大林小と南ソウル中、ソウル工業高校、亜洲大を経て1998年に釜山大宇(現・釜山アイパーク)に入団しました。2000年には韓国で初めてイタリアのセリエAに進出し、 ACペルージャ(00~02年)で2シーズン過ごし、その後、日本の清水エスパルス(02~03年)と横浜マリノス(04~05年)でプレーしました。05年には再びヨーロッパに進出してフランスの FCメス(05~06年)とドイツのMSVデュースブルク(06年)でプレーしたあと、07年に水原三星ブルーウィングスでKリーグ復帰を果たし、釜山(08年)を経て、現在は中国スーパーリーグの大連実徳で活躍しています。

1997年4月23日、中国との定期戦を通してAマッチデビューを飾り、1999年6月12日、コリアカップのメキシコ戦でAマッチデビューゴールを決めました。Aマッチ通算68試合に出場し、17ゴールを記録中で、2002韓日ワールドカップでアメリカ戦の同点ゴールとイタリア戦の劇的な延長決勝点、2006ドイツ・ワールドカップのトーゴ戦で決勝点を決めるなど、重要な試合で価値あるゴールを決めてきました。
Kリーグでも計139試合に出場し、55ゴール、14アシストを記録。99年にはKリーグMVPとベスト11を受賞しています。

――まずは近況から聞いてみたいのですが、中国でのシーズンも終わりました。今はどのように過ごしていますか?
「シーズン中はとても疲れていたので、家族と過ごしています。シーズンを通してアウェーでの試合もたくさんあったので、家を空けることが多かったのですが、今は家族と過ごすことができるので、とてもリラックスしています。友達ともたくさん会いたいですが、子どもが2人いて、2人目がまだ10カ月なんですよ。なかなか外出するのが難しくてね。今は家族とたくさんの時間を過ごしています」

――今シーズンを前に中国リーグに進出するという話が出たとき、多くの人たちがとても驚いたと思います。国内でプレーするのか、あるいは日本やヨーロッパに行くと思っていたのですが…。
「ヨーロッパに行きたい気持ちはあったのですが、年齢もありますし、実力やコンディションを考えたときに難しいと判断しました。日本では、Jリーグでプレーする間に優勝も経験しましたし、良い結果を残すことができましたからね。もちろん中国リーグが、KリーグやJリーグよりもレベルが低いかもしれませんが、僕のサッカー人生において経験してみるのも悪くないと思い、最終的に決めました」

――アン・ジョンファン選手ほどのキャリアを持っている選手が、中国リーグに進出することについて、周囲から色々な声があったと思います。自分でも中国でプレーすることについて、心残りもあったと思います。
「ええ。『なぜ? かならず? あえて?』という言葉をたくさん聞きました。しかし中国にも行ってみたかったんです。どうしてもサッカー選手が現役でいられる時間は限られていますからね。もちろん、もっといいリーグを経験してみたかったのですが、現実的にコンディションやさまざまな面で難しいことがたくさんありました。韓国、日本でもプレーしたので、東アジアのリーグをすべて回ってみれば、いい経験になると思って決めたんです。後悔はしていません。大連の積極的なラブコールもありましたし、日本にいたときAFCチャンピオンズリーグで試合をしたことがあるチームでした。そのときに、いいチームだという印象を受けましたし、中国でも名門クラブであり、もっとも多く優勝を経験しているチームですからね。そういったことが決め手となりました」

――実際にプレーしてみた中国リーグはどうですか? 大連での生活も気になります。
「ヨーロッパに負けないくらい観客は本当に多いです。もちろん人口が多いのでそうだと思いますが、サッカーが好きだという情熱が素晴らしいですね。Kリーグよりも競技力は少し落ちると感じますが、それでも上位のチームは、Kリーグ上位のチームとそこまで大きな差はないようです。もちろん中国リーグはもっと発展しなければならない状態ですし、韓国とはまだ差があります。大連での生活についてですが、サッカー都市だからだと思いますが、待遇がとても良く、気にかけてくれる人が多くて気持ちがいいですね。海外生活はたくさんしていますが、大連での生活も特に支障がなく、気持よく暮らせています。何よりも、市民たちがとてもサッカー好きだということです」

――最初のシーズンで6ゴール2アシストを記録しました。チームはリーグ8位でしたが、どれくらい満足していますか?
「いきなり中国リーグに行くことを選択したので、十分な準備ができないままシーズンに突入したのですが、最初のシーズンにしてはある程度、いいプレーと結果を残せたと感じています。来シーズンは、もっといい成績を残せるように準備していきますよ」

――来シーズンも大連でプレーするのでしょうか?実際、多くのファンがKリーグ復帰を望んでいます。
「ええ。来年もまた大連でプレーします。契約期間も残っていますからね」

――98年に釜山でデビューし、大きなシンドロームを巻き起こしました。しかし1998年のフランス・ワールドカップに出場できませんでした。期待していなかったとしても、失望感はあったのではありませんか?
「当時はまだ若かったので、たくさん刺激を受けましたよ。『足りないものが本当にたくさんある』と思いました。当時、先輩たちの話を聞きながら『僕がそれくらいに成長するならば、もっと努力しなければならない』と感じましたね。98年ワールドカップには行けませんでしたが、それでKリーグに専念できました。その年にたくさんゴールを決めることができましたし、もっと努力しようとがんばった結果が出たのだと思います」

――98年フランス・ワールドカップが終わったあと、Kリーグでの人気は本当にすごかったですよね。ある意味、当時が人気絶頂期だったのではありませんか(笑)
「歳が若かったので、少女のファンがたくさんいましたし、今思えばとても幸せな時間だったと思います。たくさんのファンが応援してくれましたからね。当時、釜山のサッカー熱は本当にすごかったですよ。僕の人生において貴重な時間でした」

――2000年7月、シーズン中盤にイタリアのペルージャ行きを決意します。ペルージャ行きが決まってから、いろいろと難しかったことも多かったと思います。
「当時、国内では僕に対する関心が高くて、周りの環境を見た場合、サッカーをするには少し難しいと感じていました。それで一度はかならず海外に出てプレーしてみたいと思っていたんです。それでチームを探している最中に、イタリアとつながりました。当時はイタリアリーグが最高のリーグと言われていたので、かならず挑戦してみたかったんです。そこで葛藤がありました。僕はチームを離れたいけれど、釜山は引きとめたい。互いの立場に違いがあったのですが、最終的には出ることができ、それによって僕の人生も変わったのだと思います」

――ペルージャでは日本の中田英寿氏の成功によって、アジアの選手の可能性を感じたと思います。イタリアに到着したとき、彼らの期待はどのようなものでしたか?
「当時、日本はマーケティングや様々な面でペルージャにとても大きな役割を果たしました。しかし韓国ではまだ、そういった分野がうまくいっていなかったと思います。ペルージャでは僕をマーケティング部分に大きな期待を寄せていたようですが、うまくいきませんでしたね。それで実力で勝負しなければいけないと思いました。そういった面でストレスがあったのは確かです」

――よくわからない国から来た東洋人の選手に対して、監督や選手たちは不信の目を向けてはいませんでしたか?
「どうしても初めて海外に出たときでしたし、彼らが当時の僕を見て、『辺境の国から来た選手なんだな』と思われていて、最初の6カ月くらいは苦労しました。友達との付き合いも難しかったですね。それでも長く過ごすことで、慣れたころにはチームメイトとの関係もよくなってきました。とにかく努力しなければならないと思いましたし、他の誰よりもたくさん努力しました」

――チームメイトに実力で認められたきっかけは何でしたか?
「実際、僕の実力は他のチームメイトよりも低かったと思います。それでも一生懸命プレーしました。シーズンが終了する最後の日まで、先にピッチに出て個人練習もしました。最後までいいイメージを見せなければならないと思ったからです。そういったことを続けることで、チームメイトたちが『こいつは真剣に学ぼうとしている』と思ってくれましたし、高く評価してくれたのだと思います。そういったことがきっかけとなり、選手たちとたくさん話ができましたし、多くのことを学ぶことができました」

――やはり試合のテンポなど、大きな違いがありましたか? イタリアリーグが戦術的にもっとも発展したリーグとも言われています。
「テンポもスピードも速い。パワーもあります。何よりも頭が良い選手が多くて巧妙なファイルもうまいですし、守備も強い。攻撃するのがとても難しかったですね。質問にもありましたが、確かにイタリアリーグの戦術的なレベルはもっとも高いと思います」

――イタリアではロベルト・バッジオ、デル・ピエロなどのファンジスタに対する憧れがとても強いです。アン・ジョンファン選手もファンタジスタの風貌を持った選手だと思いますが、現地でもそういったイメージを持たれていたのでしょうか?
「ええ。スタイルが似ているということで、そのように言ってくれる人が多かったです。僕も幼いころから、ロベルト・バッジオのような選手のビデオを見ていましたし、デル・ピエロをテレビで見ながら、彼らのボールタッチを学ぼうと努力していました。僕が真似ようとしていたためか、プレースタイルが似てきたんだと思います」

――思えばペルージャ時代のチームメイトが、その後ビッグクラブにたくさん移籍しました。うらやましい気持ちもあると思います。
「とてもうらやましいと思いましたよ。当時のキャプテンがマルコ・マテラッツィ(現インテル・ミラノ)でしたし、それ以外にもユヴェントスやインテル・ミラノなどに行ったチームメイトたちがいました。とてもいい選手でしたし、ほとんどがビッククラブへ行きましたね」

――イタリアでの2年はアン・ジョンファン選手にとって、どのような時期でしたか?
「サッカー人生や僕の生き方のすべてが変わった時期でした。イタリアでサッカーについてたくさん学びましたし、その時期があったからこそ、2002年韓日ワールドカップでもゴールを決めることができました。その時、韓国はベスト4で僕はチームの快挙に一役買うことができましたから。02年ワールドカップのイタリア戦でのゴールは、僕のサッカー人生において、あまり良くない影響もありましたからね(苦笑)。とにかく喜びと悲しみをすべて与えてくれたリーグでした」

インタビュー=イ・サンホン/ソン・チュングン
構成=慎 武宏


あのアン・ジョンファンは今…後編(KFA)


――韓国代表チームにヒディンク監督が就任したあと、なかなか試合で使わなかったり、あるときは代表に呼ばれなかったこともありました。ヒディンク監督のそのような戦略が、刺激になっていましたか?
「監督が長らく選手を認めずに、試合に使わなかったりすると、それが心の傷となることもありますし、一方で監督に認めてもらうために努力する選手もいます。僕はその両方を感じました。僕がもっとがんばらなくてはいけないとも思いましたし、反面、僕を刺激することもあったので、腹がたったこともありました」

――2002年ワールドカップが近づいてきたとき、徐々にチームの中心選手に成長していきました。しかしワールドカップ本大会の1、2戦目ではファン・ソンホン選手の交代メンバーとしてピッチに立ちました。悔しい気持ちはありませんでしたか?
「いいえ。あのときは、当然のことだと思っていました。ソンホン先輩という大きな山がありましたからね。本当にサッカーがうまい選手でしたし、僕たちはそこに合わせていくようにしていました。もしかしたら、2002年ワールドカップには行けないんじゃないかって思っていましたからね。ソンホン先輩、(キム・)ドフン先輩、(チェ・)ヨンス先輩、(イ・)ドングッもいました。いい選手たちがあまりにも多かったので、僕にとっては大きな財産になりました。最終メンバーに入ったあと、少しでも試合に出場してチームの力にならなければと思っていまいた」

――3試合目でヒディンク監督がスタメンで起用したとき、特別に要求したことはありましたか?
「楽にプレーして、自分が持っているものをピッチの上で見せればいいと。他のことは気にせず、今できることを一生懸命やればいいと言ってくれましたね。ワールドカップへの準備はとても厳しいものでしたが、いざ本大会に入ってからはとても楽にチームを動かしてくれました。『今回のワールドカップが終われば、お前にとても多くのチャンスが来るだろうから、そのためにも一生懸命プレーすればいい』とアドバイスしてくれるのを聞いて、ワールドカップ前に僕をずっと試合に使ってくれないことへの怒りは、すべてなくなりました(笑)。今思えば僕が当時、ヒディンク監督から飼い慣らされていたのは当たっていたのかもしれません。それくらい、僕よりも何倍もしっかりとした自分の芯と考えを持った人でした」
――イタリアとの決勝トーナメントでは、アン・ジョンファン選手にとって最高の日だったと思います。PK失敗と延長戦での決勝ゴールまで、地獄と天国を見たと思うのですが、どういった試合と記憶していますか?
「かならず勝ちたかった試合でした。なぜなら僕がイタリアで受けた悔しさがあったので、それで勝ちたいという考えがあったんです。しかし、僕らよりも当然強いチームでしたので、勝てるとは思っていませんでした。『目標としたベスト16には入った。相手は我々よりも強い。とにかく全力を尽くして戦おう。負けても我々は本望だ』と考えていました。そういったすべての選手たちの強い心があったからこそ、勝利できたと思います。おもしろかったのは、イタリアの選手とずっと口ゲンカをしていたことです。僕がイタリアの選手はすべて知っているので、イタリアのベンチに座っている選手が僕に対して怒っていましたね。僕もピッチ上で相手のイタリア人選手に怒っていましたけれどね」

――2002年ワールドカップ以降、イタリア戦でのゴールデンゴールが発端となり、ペルージャを離れたのは有名な話です。イタリアに適応し始めたころだったので、残念な気持ちもあると思います。
「イタリアでの生活や試合にちょうと適応したころだったのですが、まさかこんなに早くチームを離れるとは思っていませんでした。人の運命ってこうして変わっていくんだと思いましたね。それでも、どうすることもできませんでした。受け入れるしかなかったですね。2002年ワールドカップが終わったあと、もっとも残念な部分ですね。もしもイタリアでもっとプレーしていたならば、今の(パク・)チソンのようにヨーロッパで活躍できたのではと思うこともあります。でも、そういったことがあって、僕を覚えてくれている人もいるので、いい風に考えないといけませんよね」

――ペルージャでなく、違うチームにも行けたはずです。ブラックバーン行きの話もあったと思います。
「ええ。ブラックバーンとの契約を終え、サインまでしました。その1週間後、イギリス行きの航空チケットまで用意していたのに、いきなりトラブルが発生したんです。ペルージャと釜山の間に所有権の問題が発生し、ブラックバーンとの契約は交わしましたが、仕方なく破棄するしかありませんでした。訴訟にかかれば、僕がプレーできなくなりますからね。それで日本に行くことになったんです」

――イングランド行きがなくなった状況で、日本に行ったあとは少し意欲がなくなってしまったのではありませんか?
「ええ。サッカーをしない空白期間が生じました。しかし違う考えもありました。日本でもっとがんばらないと、またヨーロッパ進出を果たせるのではないかとね。叶わなければ、ずっとに日本にいなければならない。最終的に日本で結果を残したあと、またヨーロッパに進出することができました」

――こういった見方もあると思います。日本でもっとプレーしていれば、競技力の面などで有利だったのでは? フランスやドイツで厳しい時期を過ごしたことを考えれば、そう感じます。
「それは違います。僕はフランスに行ったときも新しい経験をしたので、本当に良かったです。もちろん当時は厳しい経験をしましたが、サッカーをする時間は限られているので、僕がそこでプレーしたということだけでも、個人的に満足しています。ほかの人が見たとき、『何を言っているんだ』と思うかもしれませんが、行きたくても行けず、プレーもできないのに、行く場所があり、プレーできるチームがあるというのは、これ以上選手にとって幸せなものはないでしょう。韓国でもフランスに行きたいという選手が多いじゃないですか。そういった面では、運が良かったと思います。もちろん、ドイツに行ったいきさつは言えない事情がありますが、ドイツでの経験があったので2006年ドイツ・ワールドカップに生かすことができました。フランスとドイツでプレーしたことについて、多くの人が認めてくれませんが、個人的にはとてもいい経験をしましたし、貴重な時間だったと思います」

――実際、アン・ジョンファン選手の実力なら、フランスやドイツでもいいプレーができると期待していました。何が問題でしたか?
「フランスのFCメスは、あまりにもチームが弱かったんです。いい選手はあまりいませんでした。安い金額で選手を連れてきて、成績を出そうとするチームでしたが、そういった部分が残念でした。フランスでは本当に厳しい日々を過ごしました。黒人の選手たちが多く、彼らはタックルの範囲も広い。競り合いに勝つには強いフィジカルが必要とされます。フランスが“芸術サッカー”のイメージがありますが、実際にリーグに接してみれば、とても激しい。イタリアよりも厳しいリーグだと感じましたね」

――2002年韓日ワールドカップと2006年ドイツ・ワールドカップ。2大会で自分の実力を比較したとき、どのような違いがありますか?
「どうしても2002年がフィジカルの部分やさまざまな面で良かったと思います。しかし2006年ワールドカップでは僕たちがそれなりにいい成績を収めました。1勝1敗1分の成績を残し、アウェーでのワールドカップで初の1勝を手にし、フランスと引き分けました。しかし2002年ワールドカップのベスト4があるので、06年については語られることが少ないですよ」

――色々な過程を経て、2007年にはKリーグに復帰します。釜山ではなく水原でしたが、結果的には成功しませんでした。単純にコンディションが良くなかっただけではないように思います。
「それは分かりません。僕も休んでいた期間があったので、試合にたくさん出ていれば、ゲーム感覚も早く戻すことはできたのですが…。どうしても監督は成績を出さなくてはいけないので、待てなかったのかもしれません。選手の立場と監督の立場は違いますからね。個人的には僕にもっと時間を与えてくれて、僕のタイミングが切れないようにしてくれたならば、もっとチームの力になることができたのかもしれません。とにかく結果を残さなくてはならない状況で、チームからすると僕のコンディションの回復は待てない部分があったと思います」

――その翌年に釜山に移籍します。水原時代と比較したとき、釜山での1年はどうでしたか?
「そのときは体の状態が良かった時期でした。チームは弱かったですが、それでも僕なりに一生懸命にプレーしましたし、ベストを尽くしました。チームがもっといい成績を残すために大きな力になることはできませんでしたが、それでも僕が思うのは、釜山でのプレーはそこまで悪いとは思っていません。ベストを尽くしましたし、水原で結果を残せなかったので、釜山ではいいプレーを見せたいという強い気持ちがありました」

――釜山はアン・ジョンファン選手が慣れ親しんだチームですが、久しぶりに釜山に復帰してどのようなことを感じましたか?
「釜山に戻ったあと、少し残念に思う部分がありました。昔は観客がとても多かったのですが、急激に減ったことには驚きました。観客席が埋まるまではいかなくても、半分くらいはいればいいと思っていたのですが、スタジアムの熱気も落ちていましたし、チームも弱くなっていましたから」

――多くのファンが釜山との再契約を求めていましたが、成立しなかった理由は何ですか?
「僕も釜山でプレーして、現役の最後を迎えたかったのですが、クラブ側との立場の違いがありました。詳しいことは言えませんが、もっとプレーしたかったのは事実です」

――多くのファンがアン・ジョンファン選手を2010年南アフリカ・ワールドカップで見るのを楽しみにしています。後半からジョーカーとしてピッチに立つ価値は十分にあると思います。自分ではどのように考えていますか?
「韓国代表がとてもいいチーム作りをしているので、僕が入ることでどれくらいの力になれるのかは分かりません。もちろん代表チームに行きたい気持ちはありますが、現実的には僕がどれほどの役割を果たせるのかと考えてしまいます。代表チームに入るには様々な過程がありますが、それは監督の決定に従わなくてはならないと思います。仮に選ばれたとすれば、僕としては最後のワールドカップなのでベストを尽くします。もちろん、選ばれなかったとしても受け入れます。『あ、自分の実力が足りないからだ。今の若い選手たちががんばっているからだ』とね。僕が若ければそういった考えはしていないと思いますが、今は若い選手たちよりも実力が足りないですから」

――実際に2010年ワールドカップアジア1次予選では、若手と一緒にプレーしました。世代交代が行われる時期でしたが、どのような気持ちでしたか?
「当時は新しい選手が代表に入ってきて、チーム作りをしている段階でした。僕も久しぶりに代表チームに合流したばかりで、チームの骨格が整っていない状況でした。今は若い選手たちががんばってプレーしていますし、監督がしっかりとチームを率いているので、とても強くなりましたよね」

――多くのファンが日本の三浦知良のように、長く現役でいてほしいと願っています。自分ではどれくらいプレーする目標ですか?
「実際は来年までプレーして、引退しようと考えていたのですが、機会があるならばもう少し現役でいたいと思っています。体力がなくなって、やめなければならないときまでプレーしたくはありません。ある程度、名残惜しさがあるときに現役を退きたいと思います」

――今後の目標、計画は何でしょうか?
「指導者の道はまだ考えていません。でも、ジュニアユースの育成はかならずやってみたいです。僕も子どものころ、しっかりサッカーを学んだので実力が伸びたのは確かです。ヨーロッパやほかの国を回ってみて感じたのは、ジュニアユースクラブの文化がとてもよくできているということです。そこにいる子どもたちには、サッカーが“夢”というよりも“遊び”の感覚に近いと思いました。そういったことを一度はやってみたい。ジュニアユースのサッカーの基盤が強ければ強いほど、韓国サッカーの将来にもつながっていくと思います」

インタビュー=イ・サンホン/ソン・チュングン
構成=慎 武宏

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